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串時計

焼き鳥と煙草の煙の臭いが入り交じった安っぽい空間の中、そいつは唐突に切り出した。

 

「な、な、ひっくり返す時計は見たことあるでしょ。ほら、砂時計的な。三分とか五分とか計るやつ。けどさあ、"ひっくり返る時計"って知ってる?」

 

カウンターの向こうでは串に連なった鶏肉の脂が炭に落ちてシュウシュウと音を立てている。

 

「何それ」

 

氷が溶けに溶けて殆ど水になったジントニックを飲み下して相槌を打った。が、後ろの大学生達の喧しい騒ぎ声と威勢の良い店員のいらっしゃいませえにかき消された。

 

「え?なんて?」

 

「な、に、そ、れ」

 

大袈裟に口を開いてもう一度尋ねた。満足気に頷いているのを見ると、どうやら言っていることは伝わったようだ。

 

「それはもう恐ろしい時計でさ。ある刻限を迎えるとひっくり返るんだよ。誰も気付かないうちに。誰も気付かないうちにっていうか、誰も気付かないんだよ、いや、その、とにかくそういうあれなんだわ」

 

「なに、もう酔ってんの?」

 

後ろから失礼します、という気持ちのこもってない断りと共に店員がさっき頼んだ焼き鳥を持ってきた。こちらからもも、ハツ、皮、砂肝になります、と胡散臭い笑顔で説明を終え厨房に戻る彼の背中をぼんやりと眺めながら、ぼんじりを頼み忘れたことに数ミリの後悔を感じた。

 

「お、ここの焼き鳥旨いじゃん」

 

当たりだったな、と能天気な顔をして肉を頬張るそいつに習って、とりあえずハツを食うことにした。何故人が食べてるものというのは数段美味しく見えるのだろうか。

 

「確かに、結構美味しいなこれ」

 

と口の端から引き抜いた串を串入れに放り込んだ。その時、そいつが今迄見せたことの無いような表情を見せた。例えるなら、ひっかけクイズに相手がまんまと引っかかった時のような、無邪気で、でもどことなく意地の悪さが滲み出ている、そんな顔だった。

 

「それなんだよな」

 

「何がだよ」

 

「さっき言っただろ、ひっくり返る時計だよ」

 

「……?」

 

本当に何を言ってるんだこいつは?

 

「だからそれだよ」

 

と言い切るが早いかそいつはおもむろに俺の目の前の串入れを取り上げると、トントンと目の前で弾ませながらこちらを向けて静止させた。"串はこちらにお願いします♪"とマジックで丸っこく書かれたシールが薄汚れて剥がれかけている。

 

「この串入れが?」

 

「そう」

 

何本目か分からない煙草に火をつけながら、そいつはニヤニヤした顔で話し始めた。

 

「これはな、カウントダウンなんだよ」

 

「カウントダウン?」

 

「お前さ、串入れが一杯になったとこって見たことあるか?それはもうギチギチに」

 

「流石に見たことないな」

 

「だろ?じゃあさ、もしこれが一杯になったらどうなると思う?」

 

「どうって、そりゃ店員が片付けるだろ」

 

「さっき言ったこともう忘れたのか?言っただろ、ひっくり返るんだよ」

 

話に熱が入ったのかそいつは持ったままだった目の前の串入れを逆さまにした。カラカラと乾いた音を立てて数本の串が折り重なった。

 

「何やってんだよ馬鹿」

 

と串を拾って前を向くと、そいつの顔から一切の笑みが消えていた。

 

「ひっくり返るんだよ、本当に」

 

「だから何がだよ、お前がひっくり返してんじゃねえか」

 

多少のいらつきを隠せぬまま嫌味をぶつけたが、そいつはまるで俺の声が聞こえていないかのように続けた。

 

「世界のどこかで、何かがひっくり返るんだよ」

「ひっくり返るって言っても単に逆になるわけじゃない、何かが大きく変わるんだ。それはある法則かもしれない、概念かもしれない、物理的なものかもしれない」

「でもとにかく、何かがひっくり返るんだ、そして、誰もそれに気付かない」

「いや、誰も気付かないわけじゃない、稀に気付いてしまう奴もいるみたいだけど」

「でも、多分99.9%の人間はまるで初めからそうだったかのように、一片の違和感さえ感じない」

 

最早それは冗談を言っているような顔ではなかった。流石に薄ら寒くなった。すうっとそいつの声以外の周りの音が無くなっていくような感覚に囚われた。

本当に突然こいつは何を言い出してるんだ。精神を病んでいるのか?病院に連れて行くべきなのか?最近妙な素振りはあっただろうか?色々な思考が駆け巡り何も言えなくなった俺を見据えて、そいつは更に続けた。

 

「例えばだ」

 

「お前、手の指何本ある?」

 

荒唐無稽な馬鹿話に付き合い続けるのが正直腹立たしくなってきた俺は、子供に教えるかのように両手を突き出し、わざとらしく指差しながら数えてやった。

 

「数えるまでもないだろ、ほら10本だよ、よく見てろよ。な、こっちの端から小指、薬指、中指、人差し」

 

「お前さ」

 

突然発せられた、先程までより一層凄みを増したそいつの声に俺は思わず言葉を止めてしまった。心底悲しそうな、落ち込んだような、そんな顔で溜息をついている。なんなんだ。まだ何か言い出すのか。恐れのような期待のようなよく分からない感情に支配され、次に紡ぐ言葉を見つけられないままでいる俺に、そいつは言い放った。

 

「なにムキになってんのよ」

 

ぶふっ、というような間抜けな音を皮切りに、今迄せき止めていた水が溢れ出していくかのように笑い声が大きくなっていった。ケタケタと笑いながらそいつは煙草を捻り潰した。涙まで流しながら、肩を震わせている。先程までの張り詰めていた空気が一気に弾け、にわかに周りの音が戻ってきた。

 

「は?」

 

混乱を隠しきれない俺に、ニヤついた顔のままでそいつは続けた。

 

「面白かっただろ?さっきお前がトイレ行ってる間に思い付いたの」

 

「お前まじでふざけんなよ、本気でどうかしたのかこいつって心配したんだぞ」

 

「悪かったって。少し多めに出すから許してよ」

 

なおも笑いを噛み殺しきれないような顔で、そいつはまた煙草に火を点けた。

 

「そこの串入れ見てたらほんと突然思い付いちゃってさ、折角だからお前に話してやろうと思って」

 

「何が折角なんだよ、くだらない話に結構な尺割いてくれやがって」

 

「大体な、ホラ吹くならもっとちゃんとした面白い話にしろよ、滅茶苦茶なこと言いやがって」

 

「ごめんってば、でも大体真実ってのは意外と支離滅裂なもんだったりするのよ、ほら事実は小説より奇なりって言うじゃん」

 

「今のお前が一番支離滅裂だよほんとに」

 

そうかもなあ、とそいつは少し寂しげに呟くと細く長い煙を天井に向かって吐いた。もう少し面白いリアクションをしてやれば良かったかな、と少しばかり後悔したが、まあいいだろう。これに懲りて次はもう少し上手くやれ。

 

 

結局なんだかんだで今日のお代は全額そいつ持ちになった。それは流石にいいと何度も断ったが、

 

「まーまー、今日は流石にやりすぎちゃったからさ、お詫びお詫び!それに丁度バイト代入ったばっかだし!」

 

とのことで、仕方なく押し切られてやった。

 

二人して店を出ると、うっすらと冬の匂いがした。寒さで鼻がツンとなった時の粘膜の匂いだ。

 

「やべーな、もう息白くなる季節か」

 

「だいぶ日も短くなったしなあ」

 

「風邪引くなよ、じゃあ俺家近くだから、またな」

 

とひらひら手を振りながらそいつはまばらになった人並みの中に消えていった。俺もそろそろ終電が近い。

 

 

駅に向かって歩きながら、さっきの話を思い出していた。まあ、今になってみればそこそこ面白い話ではあったか。癪に障るが少しだけ顔が綻んだ。と、ポケットが震えた。取り出した四角い画面には、

 

「おつかれ、また飲もうぜ」

 

とあいつからのメッセージが浮かび上っていた。おう、と返信し、そのまま手をポケットに戻そうとした時、ふとあの迫真の表情が脳裏に浮かんできた。

 

「事実は小説より奇なり、ねえ」

 

誰に見せるでもなくニヤニヤと微笑みながら、右手を夜空に翳し、いち、にい、さん、と指折り数えてみた。

 

数え終わって、何故か安堵の溜息が出た。白い息が立ち上って消えていく。何が串時計だ。ほれ見ろ、

 

 

ちゃんと10本ある。